『意識とは何だろうか』下條信輔 著【第3章レビュー】 心とからだと他者 連動する脳と世界

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この章だけで2冊くらいの本になりそうな深いテーマが続き、何度も読み返しました。

わかったことは、脳と身体と環境は連動していて、その境界線はあいまいであるということです。

脳だけを取り出して別モノとしてとらえても意味がなく、身体と環境につながって機能しているととらえるのです。

また心とは、環境の一部として存在している他者の存在によって生まれてくるものなのです。

脳と環境世界

脳の機能は端的に下記のようにいいあらわすことができます。

  • 脳の機構は身体に根ざしている (embodied)
  • 脳の機能は環境世界の文脈の中に位置づけられている(situated)

第2章で学んだ来歴について再度まとめておきます。

来歴」とは、身体(姿勢、感覚器)を通した外界との相互作用の経験の総体=順応の過程です。

幻視の感覚

事故のあと、数年を経てもなお、手足は依然としてありありと感覚されるというのは、手足のつながっていた状態での来歴で、いまだに脳が活動していることを示す証拠です。

これは臨界期の来歴が作用しています。

脳の臨界期とは、第2章で学びましたが、生後比較的若い時期の感覚・行動の経験が脳の構造を決め、しかもこの作用は不可逆であるという期間のことです。

二重感覚

切断された足先と実在する手というように、同時に二箇所で刺激を感じることがあるそうです。

これはさかさめがねの順応でも見られます。

さかさめがねをしばらくかけ続けて、左右の順応ができた頃に、本棚の本の左右は認識できても、背表紙の文字は左右反転しているというものです。

これは、私たちの左右の軸の知覚が複数あることを示すと同時に、新たな来歴が古い来歴の上に乗り、ダイナミックに混じり合っていることを表しています。

それぞれの来歴は、二つの別々の地層であり、どちらも正しいといえます。

それぞれ過去の事実と適応を「正しく」反映しているのです。

脳は、過去から現在までの身体と環境に連動した来歴を持っており、それが年輪のように、いまに影響を及ぼしているのです。

桶の中の脳という思考実験

運動残効も色残効も神経学的なミクロの世界に分け入ると「リアル」です。

その事実から、脳を分離して桶の中に生かしてコンピューターとつなぎ、電気信号によって、その知覚を、脳が身体にあるときと同様にありありと再現できるのではないかという思考実験が可能になります。

しかし、実際の脳では来歴が効いています。

知覚は、脳の来歴(過去)と外部の状況(現在)によりかかっているのです。

固有の来歴が、コンピューターの中に何らかの形でデータとして入っていなくてはなりません。

短期的な来歴だけでなく、遺伝と臨界期の経験による神経系のチューニングという長期的な来歴も含めて考えなくてはなりません。

だから脳は身体や世界とつながっていなくてはならないのです。

固有の来歴も含めて完全に切り離したなら、それはもはや通常の意味での脳ではありません。

脳の一部の機能だけを取り上げて、それだけで何らかの機能を果たすことがわかった気になっても、実は何もわかってはいないと下條信輔氏は強調します。

脳のほかの部位や身体や環境世界との関係(状況)の中に埋め込まれ、なおかつしかるべき「来歴」を経てはじめてその部位は特定の機能を発揮するのです。

脳に中枢はあるか

感覚器からの入力や、運動器への出力を担う神経は、刺激に対して機械的に反応する受動的な領野で、末梢的、周辺的とみなされます。

このような周辺的、末梢的なものを削ぎ落としていくと、能動的なもの、つまり主体は蒸発してしまいます。

これは、神経科学の方法が受動的なものだからだと下條信輔氏は解説します。

中枢の技術的な定義は、知覚や運動や記憶でも同じで、当該中枢を刺激すればその機能が作動するというものです。

従来の脳神経科学の方法でいくら調べても、解明されるのは、受動的に反応する領野だけで、残った「本体」は永遠に「ホマンキュラス(賢いこびと)」となって残るのです。

「環境と身体を抜きさると錯誤の定義ができなくなる」と同じで、中枢の定義は宿命的に「受動的」なのです。

これを「中枢のパラドックス」と下條信輔氏は呼びました。

脳は道具か主体か

使うものと構成するもの

人の記憶は、その人が「使う」のではなく、むしろ、その人の知性あるいは認知過程の一部を「構成する」と考えるべきだと下條信輔氏は述べました。

「使う」という比喩的な表現によって、脳内の記憶「中枢」は不当に受動化され、疎外され、削りかすとして環境世界へ放り出されてしまいます。

意外に思えますが、脳内の記憶装置と、ノートなどの環境の中の記憶装置との間には本質的なちがいは何もないのです。

感覚器官を通して情報を出し入れしなければならないことだけが違っていて、仮に神経でつないだら、ますますちがいは薄れます。

指を使って計算のできる人がいますが、外部装置が身体装置である点で違うだけです。

下條信輔氏は、内部と外部の境目は、実はいくつもあり、段階的なものだと解説しました。

そもそも脳内にわけ行って「削りかす」を捨てていくことができ、逆にノートや指を認知機能の延長とみなすこともできるのはこのことを反映しています。

脳はプライベートな装置

イナゴの嗅覚系では、同じ匂いでも個体が違うと神経細胞の発火バターンが異なります。

逆に、同じパターンでも個体がちがえば別の匂いを意味することになります。

脳の特定のコーディングパターンは、その個体に固有なのです。

記憶の外部装置も個体に特有の場合があります。

注文を受けたカクテルをグラスの配列によって覚えるバーテンダーがいるとします。

そのグラスの配列とカクテルの種類のひもづけはそのバーテンダーしか知らないので、他のバーテンダーには役に立ちません。

表現を変えると、「脳内」に限定されているはずの記憶が、身体や環境にまで「滲み出す」例がたくさんあります。

あるいは、初めからそこらじゅうに(身体と世界に)充満していて、脳内のある場所に析出しただけという方がより正確かもしれません。

創造性や独創的な解決法が、一見外の世界からやってくるようにみえることがあります。

環境内の事物が記憶の外部装置であったりするのと同じように、問題の表現や解決のヒントは初めから外界に表現されています。

脳内の記憶や認知スキルは「暗黙知」として世界のすみずみに大量に蓄えられており、エンジニアやアーティストは手足を動かすことを通じて、それを自然に読み出そうとするのです。

認知科学は進化する

認知科学の歴史的進展は以下です。

  1. 伝統的認知主義
    記憶=貯蔵庫であり、問題解決は論理的推論のみによって遂行される。認知は中央の制御をうける。環境とは単なる問題領域のことで、身体は入力デバイスにすぎない。
  2. コネクショニスト(結合主義者)
    記憶とはパターンの固定で、想起とはそのパターンの復元である。
    問題解決はパターンの補完と変形と考えられ、認知は中央集権的に進められるというよりは、地方分権的、分散的なもの。
    しかし環境と身体は依然として周辺に追いやられていた。
  3. エマージェンティスト(創発主義者)
    身体や環境世界が知性の「創発」を可能にする外部装置として重要な意味を帯びはじめる。
    その境目も連続的なものとなる。ネオロボティクスや一部の認知哲学がこの立場の推進者。

 心の理論

イリュージョンとしての他者

下條信輔氏は、他者の心の存在は、直接証拠のない信念であり、イリュージョンともいえると述べました。

しかし生態学的には意味のあるイリュージョンで生きていくうえで適切な信念です。

まさに、『サピエンス全史』でユヴァル・ノア・ハラリ氏が述べたように、ヒトの認知革命とは集団で虚構を信じることができるようなったことです。

他者の心の存在というイリュージョンこそが、意識の成立に決定的に関与することを、最近の発達心理学の研究が示しています。

心の状態は直接観察できる現象ではなく、科学理論のように推論に基づく性質のものであるから、「心の理論」と呼びます。

この呼び方では、心理学者ではない、子どもやチンパンジーまでもが理論家となります。

マクシのチョコレート

マクシという名の子供は、チョコレートが緑の戸棚にあると思っている、これは一次的信念といいます。

マクシは、チョコレートが緑の戸棚にあると思っていると、お母さんは思っている、これは二次的信念です。

マクシのいない間に、お母さんはチョコレートを料理のために少し使い、青の戸棚にしまいました。
しばらくしてからマクシが戻ってきました。

マクシはチョコレートがどこにあると思っているでしょうか、という問いで、緑の戸棚と答えられれば「心の理論」を持っていることになります。

六歳児になってようやくこの課題がこなせるようになるといいます。

意識は他者の存在の気づきとともに(本人に)気づかれ、また逆に、無意識とは、本人の気づかない他者の視点で見た自己なのです。

心の理論とは、心の中での一種のシミュレーションです。

相手がいるオンラインから、オフライン、つまり過去や未来も含めたシミュレーションへ発達します。

自己を他人として見るということ

親は子に「そういうときは、うれしいというのよ」とか「いたくてもがまんしなさい」というように、外から内部に情動を見立てて、それに名前を与えます。

こうして情動をあらわす言葉は、学習され、客観化、意識化されていきます。

皮肉なことに、感覚や感情の主体的体験という、もっともプライベートにみえることが、実は他人が自分を他人として見るときの記述を倣い、自己を他人として見るということによってはじめて成り立つのです。

赤ちゃんの心の発達は、おとなの側がその子について心の理論を持つことによります。

自己と他者の鏡像的な関係が、発生の場面にもあらわれているのです。

心はどこにあるのか

他者の存在から意識は生まれる

心はどの場所に存在するのか、という問いに対して、他人に、という答えもじゅうぶん可能だと下條信輔氏は答えます。

子どもの記憶や認知機構は、他人(=心を持った他者)の存在を含む環境との相互作用を通して発達します
「心の理論」を持つことが「意識を持つ」ことの最初の定義になります。

下條信輔氏の議論が従来の「心の理論」研究とちがうのは、ヒトは自分についても心の理論を持つ必要があると考える点にあると述べました。


自分の認知や行為に関することも、本人にとって直接無条件に与えられるのではなくて、他人の心と同じく推定する必要がある(ベムの自己知覚理論)ことは、下條信輔氏の前著「サブリミナル・マインド」で述べられました。

向き合った鏡の中の像のように、閉じた空間の中のこだまのように、無限に投影しあい、反響し合うのが、意識の実像です。

自分と他人の間でお互いに他人を認知しあうところから、意識は発生します。

いきなり他から孤立した「意識の中枢」が出現するわけではないのです。

感覚的な語彙はいかにして獲得されるのか

ヴィトゲンシュタインは、個々の言葉に独立した意味が実在するわけではないと主張しました。
どのような状況のもとで、どのようにその言葉を使えば相手を自分の思っているとおりに動かすことができるか。

その言語ゲームの仕方を学ぶことが、その言葉の意味を学習することにほかなりません.

私が見ている信号の赤色と、あなたが見ている信号の赤色は違うのではないか、違っていてもわからないののではないかというような懐疑を、独我論的懐疑と呼びます。

これが成り立たない理由は、感覚の語彙、ひいてはその経験が、外にある言葉遣いの文化を内に取り込むことによるからです。

フロイトのスーパーエゴ(超自我)という概念もよく似ています。

これは、社会の価値観や倫理規定などを、自分の人格に取り込んだものだからです。

もうひとりの他人としての私

自分をもう一人の他人として外から観察し、名指ししてもらうことによってしか、自分のありさまを記述する仕方を学ぶことはできません。

また、そのようにしてしか、自分を意識することもできません。

他者の心は「実在」するから学ばれるのではなくて、あるものとして学ばれるから結果として「実在」するのです。

同じように自分の心もまた、「あるもの」として学ばれることによって「意識される」ようになります。

第1章ではイリュージョン(知覚の錯誤)こそもっとも本質的な「錯誤」であると述べられました。
意味があり、人々の間に共通で、簡単に直らない錯誤だからです。

下條信輔氏は「他人の心」というのは、究極の錯誤、真正の錯誤だと言ってみたいと述べました。
他者を含む環境世界と脳との相互作用が、意識と無意識に土壌を与えるのです。