ブッダの獅子吼 北川達也(著)【レビュー】原始仏典がわかりやすく学べる本

『ブッダの獅子吼(ししく) 原始仏典・法華経の仏教入門』ーマインドフルネスの先を行く、釈迦の真の悟りとは?ー 北川達也(著)を読みました。

本書を読んでブッダとは現実的で「中道」の人だったのだと知って驚きました。
今まではブッダとは、仏教の教祖であり、修行や瞑想によって神秘的な力を得た特別な人というイメージを持っていたからです。

本書で知ったブッダの真の姿と教えはその正反対のものです。

ブッダとは私たちにとって身近な存在で、その教えはすぐさま取り入れられるものばかりです。

ブッダとその教えについて、私が興味を持った点についてまとめます。

ブッダの原点

ブッダは紀元前5世紀ごろ誕生しました。

同時期のインドには自由思想家の「六師外道」と呼ばれる人たちがいました。
それらは、道徳否定論者、宿命論者など、極端な思想家たちです。

一方、ブッダは偏らない、「中道」を行きました。

言葉で理解できる教えであり、神秘体験は不要で、地に足のついた、合理的な教えです。

日々の行動の中で悟りに導く方法を教えたのです。

それらをと呼びます。

とは人の行いを支えるものです。

原始仏典と日本仏教

ブッダの言葉をもととした原始仏典は紀元前3世紀ごろにまとめられました。

その流れを受けて、6世紀ごろに本覚思想、7世紀ごろに密教が成立し、これらが日本仏教につながっていきます。

北川達也氏は原始仏典と日本仏教の教えには大きな隔たりがあると述べています。

私は、日本の仏教は宗教色があったり、修行が必要というイメージがあったり、とっつきにくいと感じてきました。

しかし本書で紹介されている原始仏典は、日常生活をどうするかという教えであり、はるかにフレンドリーです。

北川達也氏は本書で、原始仏典の原語訳をもとにして三十のについて、現代に当てはめてわかりやすく解説しています。

苦しみの原因とは

ブッダは「苦しみとは思い通りにならないこと」と表現しました。

そして、あらゆる物事は思い通りにならない、と教えました。

つまり、人生とは苦しみであり「一切皆苦」です。

では苦しみの原因は何なのでしょう。

ブッダは苦しみの原因は「渇愛」であると教えました。

渇愛」とは愛されることを求めること、それは人間の本質なので、そこから逃れることはできません。

渇愛」をコントロールするための具体的な実践方法として、ブッダは「八正道」を掲げました。

八正道こそが「苦しみの消滅へと至る道」なのです。

「非我」とは

ブッダは、「思い通りにならないものは自分のものではない」と考えました。

自分の身体は、老いたり、病気になったりして思い通りにはなりません。

心も思い通りにならないし、心の病もあるように、心は身体に紐づいているものです。

つまり、自分の身体、心、ともに自分のものではないといえます。

自分のものではないとすると、誰のものなのでしょうか。

身体も心も、他者との関係性の中で成り立っているのです。

これを「非我」といいます。

私たちにとっては「非我」よりも、「無我」の方が聞きなれた言葉です。北川達也氏によると「無我」という言葉も、漢訳の違いだけで同じ意味だそうです。

自分の家族、子供、財産についても、すべて思い通りにならないもので、同じように「非我」といえます。

あらゆるものは、自分のものではない」とととらえることが、「諸法非我」です。

「諸法非我」と思えるようになると、苦しみから離れることができるとブッダは教えました。

「非我」と自己の関係

非我」といっても「行為主体としての自己」を捨て去ってはならないとブッダは言っています。

非我」だけれども、主体的に行動しなさいとは、私には解釈がとても難しく感じます。

「行為主体の自己」とは、今を生きる自分のことだと北川達也氏は解説しています。

神経科学の研究によると、人間の行動のほとんどは無意識が決定していて、意識は後追いで受け取っているだけであるとわかってきています。

そこから考えると「非我」ですが、一方で自分という意識は常にありありと感じられます。

ブッダは以下のように表現しています。

自分とは「ある」ともいえるし、「ない」ともいえる。逆に、自分は「ある」ともいえないし、「ない」ともいえない。

仏法には真か偽か、有か無かの二つにわけない「不定」という概念があると、北川達也氏は解説しています。

非我」は「不定」の概念から成り立っています。

非我」の境地に立ちながら、八正道の実戦で自己を形成するというのはまさに「不定」の実践です。

空とは

「空」と聞くと、何も中身がない空っぽのことをイメージしがちです。

仏法の「空」はそうでなく、「固定的な実体ではないこと」を意味します。

あらゆる実体は他との関係性によって、常に変わり続けるものなので、一定の状態を保つことができないということです。

一切は「空」と見ることで、人は苦しみから離れられます。

思い通りにならないことも、固定的な実体ではないからです。

この「空」にも「不定」が含まれます。

「空」であるということは、「ある」とも、「ない」ともいえます。
また「ある」とも、「ない」ともいえません。

ここでも「不定」が出てきました。
有無の対立から離れることも「空」なのです。

無記とは

ブッダは、死後の世界はあるのか、心と身体はひとつかなど、死んでみないととわかりようのないことについて「無記」(答えを出さない)という立場を取りました。

その他にも、ブッダは自らの経験から合理的に判断できない質問や、根拠の示せない質問には答えませんでした。

それに答えることは、悟りには役に立つとは考えなかったからです。

それだけでなく、予言、占い、呪術などの神秘的なことで、巨富を得ようとすることをいましめました。

これはブッダがいかにリアリストであったかを示すエピソードです。

ブッダの「無記」という姿勢は、考えても仕方のないことは考えず、今できることをするのが大切だと私たちに気づかせてくれます。

まとめ

本書を読んでブッダに対して抱いていたイメージがかなり変わり、親近感が湧きました。

そしてもっとも取り入れたいと思った教えは「中道」です。

私はすべてのことを、何かひとつの法則やパターンに当てはめようとしすぎるクセがあります。

とくに「非我」の教えは極端に受けてしまうと、自我という意識をすべて否定して、決定論でものごとを考えてしまうようになってしまいます。

そのときどきで、現実に合わせて「非我」と「自我」を使い分けていこうと思いました。

すべては「」なので、何かひとつの考えにとどまっている必要はないのです。

また「無記」という姿勢も非常に参考になりました。

私は不必要なことまで考えすぎるところがあります。

考えても答えの得られないことは考えず、まずは行動するようにしていきたいと思いました。

北川達也氏の前著では、神道の成り立ちと神社での祈り方を学びました。

本書ではブッダの教えをわかりやすく学ぶことができ、神社仏閣と二つの信仰をあわせ持つ日本人の精神性を再確認することができました。