無意識の整え方 前野隆司 著【レビュー】

『人生が変わる!無意識の整え方 – 身体も心も運命もなぜかうまく動きだす30の習慣』前野隆司 著を読みました。

私は前野隆司氏の著書『なぜ脳は心をつくったのか』で示された「受動意識仮説」に深く納得しました。

この仮説によれば、「無意識」が思考も、行動も、先にすべて決定し、意識はその結果を後追いで受け取っているだけです。

「私」という「意識」は幻想だということです。

しかし、「私」という「意識」は常にありありと感じられ、「私」として感じるさまざまな感情、思考に、私は一喜一憂しながら生きています。

本書で前野隆司氏と対談する4名は、受動意識仮説を肯定的にとらえてそれぞれの分野で活躍している方々です。

幻想である「私」とどのように付き合っていけばいいのかという問いを持って読みました。

相手と一体になる

合気道の藤平信一氏は、対戦相手と対峙せず一体になることが、技の基本であると解説しました。

これは合気道だけでなく、他の競技でも同じであると、藤平信一氏は、メジャーリーガーの指導経験から語りました。

「私」とは「つながり」の中にある

私は幼少期から「私はどこから来て、どこへ行くのだろう」という問いを持ち続け、死ぬのが怖かった時期があります。

僧侶の松本紹圭氏は、これは人間がみな持つ問いであり、「私」という存在の核が変わらないという前提から生まれていて、「私」というコアを持って独立した存在は幻想であると解説しました。

しかしそれに続けて、仏教では「私」は「あるともないとも言い切らない」と、微妙な表現をしました。

「無我」という概念はあるが、「」と「縁起」とセットで考えることが大切だと、松本紹圭氏は述べました。

「私」という存在は「空」としてはある、それはあらゆるものとの「つながり」の中にあるわけです。

「手放す」こと

「私」という存在は幻想だと理屈で理解しても、相変わらず「オレが」というような「エゴ」は簡単には死にません。

上座部(小乗)仏教ではこれを根本から絶とうとしますが、大乗仏教では「エゴ」を「やめられなくてもいいじゃないか」と考えます。

とっさに感情に支配されても、そのあとすぐに手放せばいいという考えです。

「私」というのはないけれども、感情はある、でも幻想だから手放そうということです。

あるともないとも言い切らない微妙なさじ加減は、手放すことで得られると気づきました。

宗教とは

松本紹圭氏は現代思想化のケン・ウィルバーの説を紹介しました。

宗教には二つの方向の機能があります。

水平方向の機能はトランスレーション(翻訳、物語化)、垂直方向の機能はトランスフォーメーション(変容)。

歴史的に長く続いてきた宗教には二方向の機能が備わっています。

99.9%の人が求めるのは水平方向です。

うまくいっているときは自分の物語に意味を見いだせている状態ですが、悩みや不安を抱えたときは、自分自身の物語の意味を見失っています。

このほころびを修復する大きな物語を提供するのが宗教の水平方向の役割です。

過去から語り継がれてきた神話、宗教説話には、時代を超えた人類に普遍的な原型があり、これを時代と個人の状況に合わせて翻訳し、個人の物語に意味を与えていくのです。

ゆっくり行動する

株式会社森へを経営する山田博氏は、森に行くと動作が自然とゆっくりになると述べました。

森の中でゆっくり行動すればするほど、早く感覚が開かれるのです。

山田博氏は、森の中では、究極の安心感、守られている感を感じると説明しました。

森にいることで、本来の自分に戻ることができるのです。

反対に都会の中では、不安や恐れにあふれているから急いでしまうのだとわかりました。

美で調和する

医師の稲葉俊郎氏は、真善美のうち、真と善は対立を生むが美は調和を生むと述べました。

稲葉氏は受動意識仮説を美の観点で解説しました。

それは、二元論ではない、レイヤー、グラデーションとしての受動意識仮説です。

それを「みずから」と「おのずから」の「あわい」にいると表現しました。

見える部分(意識)では「みずから」、地下(無意識)から見ると「おのずから」で、それは層と層の重なりで連続しているものです。前野隆司氏の、意識は受動的であとづけでエピソード記憶しているものという仮説は、私にとってはわかりやすいと感じていました。

しかし、稲葉寿郎氏に言わせると二元論的な解釈となります。

日本人には和歌、俳句など美を表現する言葉があります。

真、善のような二項対立ではなく、美で調和するという方法は、日本人ならではの立場だと思いました。

まとめ

「私」とは「ない」けど「ある」という微妙なニュアンスが少しだけですがわかった感じがしました。

「私」は「空」であるということは、独立しては存在していないということで、つながりの中に生きていると理解できました。

この思想が今回の4名との対談で一貫して流れていました。

受動意識仮説の理解がさらに深まった気がします。