下條 信輔 (著)『ブラックボックス化する現代—変容する潜在認知』を読みました。
ヒトの意識とは何かということに問いを持って本書を読みました。
先日著者の下條信輔さんの講演会に行って興味が深まったのがきっかけです。
第Ⅳ部の1 「機械に責任をもたせることはできるのか?」、2「ロボットは意識を持ちうるか?」についてレビューします。
意識の存在をどうやって測定するのか
意識の存在を測定するためには、二人称、三人称のデータに限定しなければならないと、著者は強調します。
意識を話題にするとき、私(一人称)の意識と、二人称、三人称の意識とを曖昧にしてきたことが、意識の問題をわかりづらくしていると著者は解説します。
たとえば、他者に何らかの刺激を与えて、機械的反応と違っていると意識の存在を推定できます。
最近のチューリングテストの結果は、人間の反応と機械の反応の区別がつきづらくなってきています。
また、意識は社会的環境に依存していて、それこそが意識の本質ではないかと、著者は解説します。
ヒトがペッドロボットに意識や情動を感じるようになる現象がそれを表しています。
そして著者は、意識を持っているのはヒトだけだという考え方に何の科学的根拠もないと主張します。
意識や情動を機械が表現するようになってくると、その本質がやかてあきらかになってくるのでしょう。
自由意志は幻想である
自動運転車やAIが起こした事故の責任は誰が取るのでしょうか。
それを開発したプログラマーや会社が責任を取るべきというのが、現時点での誰もが納得しうる回答でしょう。
自由意志で自分の行動を制御できるのはヒトだけで、だからヒトに責任を負わせることがてきるというのが、誰もが信じている常識です。
しかし、そもそもこの自由意志や、責任という概念は、歴史的には不変のコンセンサスではないと著者は述べています。
自由意志とは、個人の責任に基盤を置く、近代の法体系や社会制度の要請に対して生まれた概念なのです。
そしてその自由意志の正体については、哲学的にも神経科学的にもコンセンサスは得られていないと著者は解説します。
まとめ
今ぼくたちが信じて疑わない意識や、自由意志は幻想で、脳内にも存在しないかもしれないのです。
先日の講演会と本書を通じて、これが真実なのかもしれないとだんだんと思うようになってきました。
引き続き下條信輔さんの著書を読み漁っていきたいと思います。