『意識とは何か』下條信輔 著【第4章レビュー】意識と無意識のありか

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下條信輔氏は、前著『サブリミナル・マインド』では無意識、意識という言葉を使わずに、潜在的、顕在的、または自覚的、無自覚的という対比を使いました。

意識、無意識は臨床的ニュアンスが強いからということで、あえて避けたそうです。

下條信輔氏は本書では、臨床心理学を視野に入れて、そして日常的に使われる言葉としても念頭に入れながら、この問題に本格的に迫っていくと宣言しました。

意識は行動や物質に逃げられない

意識は意識以外のものでは説明できません。

意識は行動や物質とは違います。

たとえば、悲しみという心の状態は、泣くという行動とは違います。

大脳辺縁系の神経活動そのものとも違います。

しかし、専門家の間でも長らく、すべて行動に置き換えて考える「行動主義」や、単純な生理過程に還元して考える「還元論」だけが、二元論や神秘主義に対しうる科学的な選択肢だと考えられてきました。

これには二つの誤解があると下條信輔氏は指摘します。

一つは意識がつねに自己意識であるという誤解です。意識は自己だけでなく、事物や他人を意識するという状態もあります。

二つ目は意識が特別な内観の能力だけによって知られるという誤解です。

視覚は対象と見る行為をきれいに分けて考えることができますが、内観ではその区別はできません。

心の中身を内観しているとき経験される内容は、内観自体が中身(絵柄)であると同時に、内観という行為(絵柄を見る行為)そのものです。

このように、意識はそれ以外のものに還元できません。

また意識の時間的な拡がりと、社会性(他者と他者の意識の特別な役割)は意識の他では代えがたい特徴です。

おもしろいことに、同じことは無意識にもいえます。

このことは、自己と他者についても、空間と時間についてもいえることです。

これらはほかの単純な経験や概念で置き換えることが難しく、私たちの経験と認識の基本次元を形成しているように思われると下條信輔氏は述べました。

意識の多様性

意識とは見る側の問題

意識とは一つの状態または機能ではないというなら、多数の相互に関連しながらも、異質なもののゆるやかなまとまりではないか、

また、それらの同じ機能についてのさまざまな視点からみる見方の全体ではないかと下條信輔氏は述べました。

さらにオールオアナッシングではなくグラデーションのある認知の様式ではないだろうかと付け加えました。

相手の無意識な行動ほど、機械的、受動的、無抵抗に見えます。

相手の意識については、こちら側のグラデーションを持った判断にすぎません。

サイバネティック・タートルのエルマーとエルシーは、センサーと駆動系のきわめて単純な連結だけで動いているのに、側から見ると非常に生命的で、意図や社会性さえ持っているように見えてしまうロボットカメです。

意識を持っているように「ふるまう」ためには、身体性を持つとともに、見る側の認知様式が問題となるのです。

そもそも、意識は心の一部にすぎないのであって、無意識の心もあるといえます。

サイボーグは意識を持っていないが、無意識的な心は持っていると客観的、行動的証拠だけからいえそうです。

裏を返せば、生身の人間の行動のうち、きわめて無意識な行動ほど、機械的、受動的、無抵抗で、意図にかかわらず生じてしまいます。

そして意識がつねに無意識から生じるとすれば、相手にどの程度「意識」を求めるかは、こちら側の、それも濃淡を持った判断に過ぎない一面があります。

このように、意識は見る側の主観の問題、見る側の内面の投影でもあるのです。

本人の行動の外からの観察者による認知であり、帰属なのです。

意識は一面で、むしろ観察する側の知覚、認知の様式です。

それなのに無意識は主体の側が持っていると考えられ、サイボーグでも下等な動物でも共通しています。

ここら辺りに、意識と無意識のもやもやした関係を解きほぐす糸口がありそうだと下條信輔氏は希望を述べました。

サルが報告する知覚

「両眼視野闘争」の実験は、両眼に別々に異なる図形を示すと、ヒトでは数秒ごとに図が交代して知覚されるというものです。

見える図柄に応じて違うボタンを押すようにサルをあらかじめ訓練しておくと、ヒトと同じようにサルも数秒ごとに交互に二つのボタンを押し、自分の知覚を報告することができることがわかりました。

fMRIによる研究では、サルもヒトとまったく同じように、脳内の近くに対応する部位が活性化したことがわかっています。

これをサルも意識を持つといってもいいのでしょうか。

これには疑いを持つ人は多そうです。

意識の定義の広さ

サルを他人に置き換えてみても同じ疑いを持つことができます。

本当は私以外のヒトは、そう見えるように機械的に動かされているだけかもしれないと疑うことはできます。

このようなヒトもどきのことを哲学者は「ゾンビ」と呼びます。

私は、事前にサルに訓練をほどこしていることが、意識があるように見える理由だと思いました。

サルが知覚した通りにボタンを押すことは、観察者がそう振る舞って欲しいという要望そのものだからです。

サルは実験者の要望通りにふるまうことで、観察者は意識を感じるかもしれません。

意識とは存在するものではなく、推定するものだともいえそうです。

では他人はゾンビではないのでしょうか。

最終的には観察する側の認知の様式で決まるといえます。

「意識」の特徴はたくさんある

哲学者サールは、意識の構造の本質的な特徴を1ダースも列挙しました。

  1. 様相性
    限られた特定の感覚モダリティ。
  2. 統一性
    水平の統一性、文頭の気づきは最後まで持続する
    垂直の統一性、特定の瞬間に同時にたくさんのことが統一的に理解されている
  3. 志向性
    特定の視点からの見え、行為の目的、主観的方向性を持っている
  4. 共感性
    意識のあると思われるものについてだけ、その動物になったらどんなふうかと想像することができる。
  5. 図と地の構造
    地は図の近くに必要であり、つねに随伴しているのに、それとして意識されない。意識されたとたんに図となる。
  6. 中心と周辺の区別
    考えごとをしながら運転をするとき、運転に必要な近くや記憶は意識の周辺地でずっとあった。ただ気づきがなかった。無意識とは違い、その気になれば意識の中心に持ってくることができる。
  7. 内容のオーバーフロー
    意識は一般にその直後の内容を超え出ていきます。つねに他の思考と結びつき、数え上げればキリがなくなる点に本質があります。
  8. 親近性
    意識は分類を伴います。それらはいずれも親近性を伴う分類です。知覚経験そのものも親近性を伴うのです。
  9. 境界条件
    意識は状況の中で、常に特定の位置を占めています。空間的、時間的、社会的、生物学的な意味での場所に位置づけられているのです。これは逆に、記憶喪失、離人症などの病的なケースで、かえって明らかになります。
  10. ムード
    これは志向性のすべての形態にあてはまる、ばくぜんとした気分のことです。
  11. 快不快の次元
    これは機械や人工知能を意識した指摘でしょう。機体やコンピューターは快不快の次元の元に心的経験をするとは考えにくいからです。 

意識の特に注目すべき構造

これらの意識の特徴の中で、特に注目すべきは、「図と地の構造」、「中心と周辺のちがい」です。

意識の周辺と無意識とは別のものとして区別できます。

夢遊病や、酔っぱらっていつの間にか家に帰り着く、などは無自覚の気づきであり、無意識とは区別すべきものです。

そうでなければ、夢遊病で夜歩き回ったあと、自分の部屋のベッドに戻ることはできません。

「内容のオーバーフロー」とは、考えずに次から次へと言葉が出てくるような状態です。

しかし、予想されると問いへの全ての答えを最初の瞬間に意識の内容として持っていたとは考えるのはナンセンスです。

意識の中心から周辺へ、そして無意識へ、身体の反射へという芋づる式の連続体。

この中にこそ意識の本質が見え隠れしていると下條信輔氏は述べます。

意識は、その直接的な明示された内容以外のものに支えられ、その裾野が限りなく地下にまで広がっていると表現しました。

意識と無意識は似て非なるものですが、ちがうのに依存し合うものです。

無意識ー意識と世界を結ぶもの

無意識に錯誤はない

無意識的な過程はそれ自体としては、「錯誤でも正解でもなく、また正常でも異常でもない」のです。

錯誤が無自覚的な認知過程によってもたらされるのも、認知が無自覚的過程によって「構成される」からで、使い方を誤るからではありません。

心の中で無意識は、機械的、自動的であり、生理学的、身体的、環境的です。

ヘルムホルツは無意識的推論は意識化できないものと考えていたようです。

フロイトは意識と無意識をつなぐものとして「前意識」という概念を唱えました。

それは注意の向け方いかんでは意識化できるという領域だとすれば、意識の周辺部に対応するかもしれません。

しかし逆に無意識は金輪際意識化できない存在になってしまい、心の一部ではないことになります。

無意識の二股膏薬的特性

無意識の特徴とは、ぬえ的または、二股膏薬的といえます。

モノの世界に属するのか、心の世界に属するのか、どちらに解釈しても、矛盾が生じます。

無意識のぬえ的特性の中に、デカルト式の乖離した二元論の破綻する姿が露呈しています。

自覚的な動機よりも無自覚的動機の方が、一見よりプライベートで、人格の一層深奥に隠れているように見えます。

ところがこの無自覚的動機を判断する権利は、皮肉なことに、友人や心理学者など、他者が持っている

それがわれわれの社会の常識です。

自分のことなのに、他人に特権があるのです。

この一見矛盾する事態をどのように考えたらよいのでしょうか。

しかし、このことは、意識(脳内)ー無意識(身体、環境への滲み出しと境界のゆらぎ)というつながりを考えれば、納得がいきます。

潜在的過程は、刺激入力の関数によって一通りに決まってしまうという機械論的な側面をはっきり持っており、その分環境世界と直接につながっています。

このことは、潜在的過程が、おおむね大脳皮質よりも低次の非言語的で、系統発生的にも古い神経機構によって支えられていることとも矛盾しません。

意識が先か無意識が先か

もう一点の重要なポイントとして、無意識の概念は意識の概念を確定することなしにはありえないということが挙げられるます。

「無意識の〇〇」は「意識的な〇〇」の前提抜きには考えることすらできません。

結婚の概念の理解なしには離婚が理解できないのと同様です。

にも関わらず意識は無意識の背景の元においてのみ、初めてたちあらわれます。

固体発生(発達)的にも、系統発生(進化)的にも、無意識が先立つのです。

赤ちゃんや動物に無意識の心だけを認める人は多いが、意識だけを認める人は少ないはずです。

意識の原初的構造

意識の特徴で述べたように、地は本来それとして自覚されることはありませんが、常に図の知覚に随伴しています。

図あるところに地はつねにに潜んでいます。

地はそれに気づかれた瞬間に図となり、元来の図は地となって背景に退きます。

「ルビンの壺」という有名な反転図形はそれを強くものがたります。

視覚世界への住み込み

上下さかさめがねで自分の足元を見ると、自分の足が自分に対面して立っている他人の足のように見えるそうです。

離れて「あちらに」、「こちら」向きにみえるというのです。

「こちら」側には漠然とした体性感覚的「自分」が感じられています。

それは意識の周辺に地として存在します。

「あちら側」の顕在的な対象、「こちら側」の潜在的な自分という構図に普段はなっています。

しかしこの関係は注意や経験によって逆転が可能です。

ふだんは頭やからだを動かしても外界は静止して知覚されています。

つまり外界の事物の網膜像の動きが自己の運動に帰せられています。

図として意識されているのはあくまでも自分の動き、外界は地=枠組みとなっています。

めがねをかけたとたんにこの関係が逆転し、頭やからだを動かすたびに世界全体がゆれうごいてみえるのです。

同じような網膜像の動きであっても、方向が逆転しているために自己の運動にではなく、世界そのものの動きに帰せられ、それが図として意識されるのです。

めがねをかけて一週間ほどだ知覚が順応し回復します。

自分の体がふたたびこちら側に戻ってきます。

知覚の構図は意識を理解するための比喩でなく、むしろ本質の露呈といえます。

無意識とは来歴の貯蔵庫である

意識の周辺の背景(地)なしに意識(図)は生じえません。

意識の基盤は少なくとも周辺的で無意識的です。

意識の基盤は身体的で生理的な基盤ともいえ、注意や経験によって揺れ動き重複し反転します。

無意識が意識の基盤でありえる理由は、無意識的過程こそが脳の来歴貯蔵庫であるからと下條信輔氏は述べます。

また来歴がその影響力を行使する場所でもあります。

前章で独創的な発見がなぜ外側からきたように見えるか、下條信輔氏は身体や世界の事物が認知の外部装置だからと述べました。

さらに以下のように付け加えました。

発見や洞察がなされたとき、その解法を意識できたとき、その前段階で無意識の水面下で来歴が持続的に作用し意識の周辺を形成していたはず。

これが地として潜在的に形成されたからこそ、発見が図として浮かび上がったのです。

浮かび上がるにあたり、身体の何気ない動きや世界の事物の何気ない注意が大事なのも、それらが無意識の過程と重なるからです。

意識の現象学

無意識との境界領域で意識が生じる姿見を素描したいと下條信輔氏は願望を述べました。

現代の人間科学のセントラルドグマは生物学的な意味での決定論に加担しています。

時代の人間観の中で自由意志の生き延びる領域はますます狭くなる趨勢にあります。

このことが前著『サブリミナルマインド』で述べられました。

意識と無意識の境界は連続的で揺らいでいます。

下條信輔氏は、ゆらぎにマトを絞り、次の問いを発しました。

「どのようなときに意識は生じるか、どのようなときに生じないか。」

意識とは通常人が考えているほどには生じていないのではないだろうか。

また持続もしていないのではないだろうか。

むしろ特別な条件の下でだけ生じて、私たちはそれに気づかないだけなのかもしれない、というのが下條信輔の問いに対する仮説です。

というのも、無意識は当然のことながら気づかれず、その長さを実感することもないからです。

私たちが日常使う意識や気づきはさまざまな心の状態が含まれます。

しかしそこには何か共通点の特徴があるかもしれないのです。

意識が生じるときの共通点

行為の前後に、その行為についての意識、あるいは気づきが生じる、高まるのはどのような場合でしょうか。

下條信輔氏は3点をあげました。

  1. 行動が強制的にストップされたとき
    短期記憶は意識の焦点領域と重なります。途中で話しかけられると短期記憶は忘れがちです。ある課題が首尾良く達成されるとその課題のことはすぐ忘れ去られ、途中で停止するとなかなか忘れないというツァイガルニク効果は有名です。
  2. 行動を評価するとき
    過去を見直し先行きの行動計画を立てようとするときです。逆にスポーツでは考えすぎは良くないとされます。
  3. 他人の視点から見るとき
    面接、オーディションや、何か恥ずかしことをしたときで、失敗を人前で指摘されたときなどに特に強く感じます。

上記3つの例で共通するのは、意識が生じやすい場合とそうでない場合との区別は切れ味が悪いことです。

意識が「オールオアナッシング」ではないということです。

意識と無意識の境目のあいまいさが、心の実態であり、一つの本質と考えると当然かもしれません。

人間は自由意志の存在か、機械仕掛けの人形か

この両者は互いに矛盾するがどちらかに決めようとするとまた矛盾が生じます。

古来哲学上のアポリア、解決困難な問題とされてきました。

私がもっとも関心を持つ点です。

私は、ヒトは「機械仕掛けの人形」であると言われた方が安心します。

私はずっと、「努力しなさい」、「がんばりなさい」と言われるのに抵抗を感じてきました。

ヒトは、動物と同じように、そのときどきで最適の行動をしているはずだという感覚を持っているからです。

この対立概念に対する下條信輔氏の回答は、直感とは大きく異なるものです。

まず下條信輔氏は、自由でないと感じるケースを三点あげました。

  1. 行動が他人または外部の状況によって強制的にストップされたとき。
  2. 自分の行動を評価するとき。自分の行動を外的要因に帰することができるとき。
    外部の原因とは身体的であることもあるし、環境的であることもあります。
    裏返して言えば、自由意志とは、外部要因が見当たらないときの、内的過程への原因帰属の様式そのものです。外側に要因が見当たらないから、自分の好み選択に原因を帰するのです。
    自分の好みや選択が原因ということは、自由意志の定義にほかなりません。
  3. 他者の視点から見るとき。客観的、科学的に分析できるとき。
    自由意志の選択を感じるのは一人称の私だけです。他人の行為を見て自由意志を推定することができても感じることはできません。機械論的にみえるのは科学的分析をしたときだけで、科学的分析とは客観的見方、他人の視点による見方です。つまり一人称の自分は蒸発してしまいます。

三つのケースをまとめると以下です。

1. 行動が意識され。
2. その原因が外の世界に。
3. 誰にも観察できるかたちで見つかったとき。

裏を返せば、「自由な行為」はもっとも意識にのぼりにくいときに実現します。没頭し、われを忘れているときに。

このことは直感に反することです。

普通は自由意志が、意識のもっとも意識らしい部分とされ、忘我の状態は動物的とみなされるからです。

いずれにしても、自分の選択した行動を「自由意志によるもの」と認知するためには、無意識的な過程が必要です。

反面、そもそも無意識的な過程だけなら、自由意志は存在しえません。

存在したとしても、機械論的決定論との対立などは生じえないでしょう。

逆説的であるが、意識のもっとも意識らしい頂点の部分において、心は無意識の領域へ、そして生理、身体、世界へと再現なく漏れ出すのです。

意識の科学はありえるか

心の科学はなぜ難しいか

自由意志と決定論を同じ地平で対立的にとらえる見方が適切ではないという衝撃的事実がはっきりしました。

意識の中心部には、しっかりとした「気付き」と注意の集中をともなう領域があります(意識+気づきの領域)。

その周辺には、意識の範囲内ですが、はっきりした気づきをともなわない領域があります(気づきの欠如した意識の領域)。

そのさらに周辺を無意識の領域が囲んでいます。

さてこの無意識の領域は、中枢神経系を介して末梢神経系に連なり、感覚器官や筋肉などの整理過程と連携しています。

無意識の領域が仮に意識化できないものだとすれば、それはすでに「身体」であると言ってしまってもよいでしょう。

しかし身体には、例えば関節の曲がる角度とか、四肢の重さや慣性、摩擦など、神経系とは別の生物物理的な制約があります。

無意識の心に課せられたこのような制約は、すでに環境世界と混じりあっています。

そしてその外に、他者がいます。

ところが他者が「外」というのはあくまでも表面的な表現であり、先の扁桃核切除サルや、感覚的語彙の獲得の例からわかるとおり実は脳の深奥ともっともつながっているのだといえます。

それに無意識は、二重の意味で私の中の他人であるともいえます。一つは、自分でも自覚できない、うかがい知れない一面があるという意味で、もう一つは発達的にみて、その形成が社会や文化、教育など、より一般的にいえば他人に依存しているという意味においてです。

こうした相互依存の関係は、本質的な意味で錯綜しており、またその境目は重なり合い、揺れています

無意識的領域の存在そのものが、こうした重なり、揺れのあらわれであり、証拠であることは、すでに触れたとおりです。心の科学が難しい理由がこのへんにありそうです。

無意識から突破口が開ける

認知と環境のつながりを強調するなら、その境界はどこにあるのでしょうか。

頭蓋骨が境界ではないとするなら、どこにあるのでしょうか。

認知=中心制御機構という立場と、認知=身体、環境を含む諸要因の全体的連合という立場の間の揺らぎといいえるでしょう。

下條信輔氏はその中間と考えると述べたうえで、後者を応援したいと希望を述べました。

前者がオーソドックスな認知科学と神経科学双方の圧倒的主流であり、その結果後者の側面が見落とされているからです。

哲学者ホーグランドは「生物学的脳は、環境との親和性に向かって本質的に調節されている」と述べました。

しかしこの点を強調しすぎると、認知(心)と環境との間はのっぺらぽうの連続になってしまい、科学的分析が難しくなります。

認知プロセスの意味のある要素と意味のない要素の区別の基準はどこにあるのか。

これが今、認知科学の最先端の一つの問題です。

このような文脈の中で無意識は科学の技がかかりやすいといえます。

意識の直接性、主観性に対してはまだまだ歯が立たないが、無意識的な過程には切り込めるのではないか、ここから逆に意識の本質を解明する突破口が開けるかもしれない、という期待が湧いてくると、下條信輔氏は述べました。

無意識に科学の技がかかりやすいわけ。無意識は身体や環境に直接つながっているからであり、脳の機能の中でも、受動的で機械的だからです。

逆の側面では、意識はなぜ科学が苦手としてきたのでしょうか。

科学の方法論そのものが、脳や認知過程を状況から切り離し孤立させるからだと下條信輔氏は解説します。

さらに生理学のやり方は、刺激して反応をみる方法、つまり受動的側面だけをみる方法をとってきました。

これは科学が爆発的に進化してきた理由でもあり否定すべきものではありません。

これを忘れて、単に「還元論」に対立する全体論や神秘主義の立場や、西洋科学を乗り越える、東洋思想などと喧伝する考え方は、下條信輔氏は、思考の怠惰か、コンプレックスの補償にしか見えないと断言しました。

そして、脳科学の本筋の中に「脳の来歴」、脳と身体と環境世界との相互作用の「来歴」をもう一つの軸として入れたなら、これまでの研究の弱点を乗り越えることができ、事態として変わってくるのではないかと続けました。