本講では、社会的に共有されている「自由意志」、そして「責任」に関する考察が展開されました。
下條信輔氏は、「自由意志」と「個人」は、急速にその根拠を失い、崩壊していくと述べました。
そのあとに心理学者が取りうる立場として、顕在・潜在両過程を区別し、相互作用を考えることによって自分の心と行動を、他人のそれらとともに統一的に理解するということを提唱しました。
意図と罪
犯人が罰せられるとき、本人の「意図」に重きを置くのが私たちの社会常識です。
車で人をひき殺した場合、
- まひが起こった
- 不注意の過失があった
- 殺意を持ってひいた
の三通りでは、罪の重さが違うことに、私達は異議を唱えることはありません。
「故意」であることが、罪を重くし、人々の批判を浴びます。
「故意」を判定するには、「意図」の自覚という前提があります。
未必の故意と無自覚の故意
「故意」にはふた通りあります。
- 「確定的故意」:犯罪の実現を確定的なものとして認容している
- 「未必の故意」:犯罪が実現するかもしれないと認容している
「未必の故意」だったとしても、加害者が意図を「自覚」していれば、重い罪に問われるというのが、大方の意見です。
意図を「自覚」せず、反射的にとった行為が被害をもたらした場合はどうなるでしょうか。
その行為をした側が被害者に対して日頃から憎んでいたという背景があったとしたら、それは「無自覚」な故意なのでしょうか。
意図とは「自覚」できるものであり、「無自覚の意図」とはそもそも形容矛盾であると下條信輔氏は述べています。
経験の直接性
本人の経験が揺るぎない事実であることを、直接経験の「最終性」といいます。
「最終性」とはそれ以上さかのぼって根拠や真意を問えないという意味です。
歯科医師も神経学者も原因を特定できない、歯の痛みに苦しむ患者がいたとします。
少なくとも当人にとっては痛いから端的に痛いのであって、その真意をさらにさかのぼって問うたり、またそのために他のより直接的なデータに訴えたりすることはできません。
犯罪でもこの直接経験を重んじており、責任の軽重さえ、本人の自覚に大きな比重を置かざるを得ません。
しかし、最近の行動科学的データから、この直接経験の特権性に疑義が生じています。
その根拠は、第一講で述べられた、ベムの自己知覚理論にあります。
私たちは、「自分のことは自分が一番よく知っている」、「自分は自分の思う通りに行動できる」と信じて生きています。
これらは、「すみずみまで自覚化できる意図によって、ひとつに統一された自己」という共同幻想にのっとっていると下條信輔氏は強調します。
自己がすみずみまで自覚できて、統一されていると感じるのは幻想であることは、分離脳患者の例からも明らかです。
現行の規範体系はこの共同幻想にのっとっています。
本当の理由
私たちには「直接経験」に対する信頼の一方で、「本当の理由」が表向きの理由とは独立に存在するという信念も持っています。
このふたつの信念は矛盾しているように見えますが、社会には同時に存在しています。
矛盾が表面化しないのは、暗黙的で自覚できないからです。
本人が嘘をついていると自覚があるときにはさしたる関心はなく、客観的に第三者によって同定ないし推定される理由が、本人が「本当」と信じている理由と食い違う場合に重大な関心があるのです。
「本当の」理由が、そもそも存在ずると信じる根拠は何なのでしょうか。
「自分の経験している感覚は直接的で疑問の余地がないが、他人の経験している感覚は別であてにできない」
これが暗黙の前提になっていると下條信輔氏は述べています。
現代社会の人間観
今日、「個人」を何よりも優先させ、その独立性と自由意志を尊重するのが、現代社会の人間観といえるでしょう。
同時に、他人の自由を保証するための「責任」も必要とされます。
下記に下條信輔氏のまとめた「現代社会の人間観」をそのまま引用します。
1. 私たちは一見、自己の経験の自覚的直接性を疑うことなく生きているように見える。ある行為を評価するとき、本人が自覚している「意図」がどうであったかを私たちはしばしば重視するし、哲学上の論争でも、主観的経験の直接性・特権性そのものは、ふつう疑われない。
2. しかし反面、知覚や判断や行動の由来・理由・動機・原因などを最終的に特定化する必要が生じたときには、私たちは第三者の観察にむしろ特権を与える。
3. その場合「責任」は、本人の自覚化された意図と第三者による因果関係との間で重みづけ、ないしは斟酌(しんしゃく)される。
4. これは私たちの日常の行動様式を規定するだけではなく、社会規範をも陰に陽に裏づけている、信憑の体系である。また、同時代人によって共有されるが、時代にともなってグローバルには変化する人間像の体系という意味で「時代の人間観」とも呼べる。
5. そこでこの「時代の人間観」をより深く理解するために、私たちはその人間観の本質的な複合性を自覚しその依ってきたる所以と根拠とを洗い直してみなければならない。
責任をめぐって
「責任」の概念は「行為」とともに、刑罰理論を支える重要な柱です。
自由意志論にもとづく古典主義と、近代主義にもとづく機械的決定論との間で意見の対立があります。
決定論では、罰せられるべきは行為ではなく、犯人自身と考えます。
自由意志は否定し、個人の資質と、社会環境との相互作用の必然的結果と見ます。
しかし不徹底な一面もあり、決定論でいけば、犯人はあらゆる罪から免責されることになります。
両主義ともに責任能力を問題とします。
幼児であることや狂気乱心の場合です。
現行の刑法では「心神喪失」がこれに当たり、責任無能力と認定されます。
行為能力の前提には、意思能力(自分の行為の結果を判断する能力)が必要とされます。
決定論の立場をとったとしても、やはり意志の存在が重要となります。
生物学的免責の論理
遺伝病に関する研究のめざましい進展により、遺伝学的決定論が注目されてきています。
文化や教育の影響の大きさを楯に、経験論・環境論を唱えている心理学者と対立しています。
決定論を主体として自由意志を否定することから同じ穴のムジナであると、下條信輔氏は解説しています。
遺伝学的決定論も、環境論的決定論も、自由意志によらない点で同じであり、アメリカで生物学者と心理学者が人気がある理由がそこにあるとさえいわれています。
現代の米国は、金で正義が買えるとまでいわれています。
さまざまな症候群や障害を「発明」して被告人を救ってしまう辣腕弁護士たちの活躍が、この状況をよく示しています。
自由意志のゆくえ
独立した意志を持つ単位としての個体、究極的な価値としての自由は、急速にその根拠を失い崩壊していく、というのが下條信輔氏の見立てです。
私たちの「自由」、「意志」がどう救い出されるのか、下條信輔氏ははっきりした見通しはないと述べます。
だだ、はっきりいえる事実として、
自己認識の多重構造は、潜在的過程(他人の客観的視点)、顕在的過程(自分の主観的視点)との多重性という形で尖鋭しています。
しかもこの両者は孤立しているわけではなく、その境界線はたえず揺れ動き、相互作用を繰り返す。
その意味で乖離はしていないのです。
行為と規範
哲学的に行為と規範はどのように扱われているのでしょうか。
「意志行為」の判断基準は「観察によらない知識」です。
自分の行為を観察しなくても、自分にはわかっているという「理由」です。
「知っていた」か「知らなかった」で、責任に対する人々の感情は、非難から同情に変わリます。
知識に基づく選択、決断、努力があってこそ、意志行為と呼べるのです。
行為の結果に対する責任の負い方は二種類あります。
予期すべき結果は100パーセント責任を負います。
波及効果については本人の予測外なので、軽減されるか負うべきではありません。
このしごくまっとうな考え方に、危険な落とし穴があると、下條信輔氏は警笛を鳴らします。
この考え方は必然的に、確実性の根拠をもっぱら意識事実の明白な直感、つまり本人の主観に求める見解に至リます。
これを内在主義といいます。
この内在主義が思ったほどうまくいかないのです。
そのひとつの理由は、評価や行為の正当化にさいして引き合いに出される願望、欲求、愛好などは、価値や規範から絶縁された単なる内的事実などではありえず、生活、慣習、制度との関連においてのみ意義を持つから、ということです。
哲学者の黒田亘によれば、願望、欲求、愛好は「すでに公共的な地平にある事実」だから。
下條信輔氏も黒田亘と同様「内在主義」に破産宣告をします。
「内観が無条件に確実であり、絶対的真理でありえるのは、心の自覚部分においてだけだから」
「そして心の無自覚的部分は、外部の環境とよりいっそう密接につながっているから」
私との会話
自分とのコミュニケーションは、第三講で取り上げられたガザニガの言う通り、「外的」で「間接的」なものです。
他人とのコミュニケーションとは、ともに外的である点で、本質的に同じです。
その経験のされ方が違うだけです。
内在主義の克服のために心理学者がとり得る立場は、大きく分けて二通りあります。
ひとつは論理実証主義、論理行動主義で、いわば他人の行動を理解するための心理学です。
もうひとつが下條信輔氏らの立場である潜在的人間観で、これは顕在・潜在両過程を区別し相互作用を考えます。
そして自分の心と行動を、他人のそれらとともに、統一的に理解するための心理学です。
ラディカルな行動主義を、方法論的には支持しつつ、反面で、自覚的意識の存在をも支持するのです。
まとめ
最終講では、それまでに示された潜在過程の証拠を考慮しつつ、罪や規範という社会的なテーマについての考察が繰り広げられました。
すみずみまで理解できて、統一された「自己」とは共同幻想であり、そのような幻想でできた個体の集合体が現代社会といえます。
一方で自己の経験の特権性には疑わしいときもあるという、矛盾する暗黙の前提も許容しています。
「自由意志」を否定する、生物学的、環境論的決定論も、無罪を勝ち取るために先鋭化してきています。
本書が刊行されたのは1996年で四半世紀前のことです。
下條信輔氏が崩壊すると予言した、「個人」や「自由意志」の概念は、一見するとますます強くなってきているようにも思えます。
しかし、人工知能によるテクノロジーが私たちの生活に応用されつつある現代において、まさにいま「個人」、「自由意志」の意味を見つめるときが来ているのではないかと感じます。