『意識とは何だろうか』下條信輔 著 【第1章レビュー】 錯誤とは何か

知覚の錯誤を「イリュージョン」と呼びます。

イリュージョンは、視覚系の正常な適応機能です。

事実とイリュージョンとは区別できないともいえます。

知覚と同様に、認知にも錯誤が起こり、知覚のイリュージョンと共通点が見られます。

幾何学的錯誤は錯誤か

同じ長さなのに、どうしても長さが違って見えてしまう図形があります。

このような図形は、実空間の奥行きのある風景にすることで、錯誤は錯誤と言い切れなくなります。

何が錯誤で何が正解かということは、周囲の空間的文脈、特に奥行き関係によることがわかります。

イリュージョンは万人に同じように、同じ方向に起こります。

ヒトだけでなく、ハトやサルでさえ起こることがわかっています。

風景があり、視点があり、奥行きと遠近があるとき、つまり身体と環境とが関係を持つときに、「正解」の意味は変わります。

錯視によって判断が全体としてずれても、その精確さは損なわれません。

錯誤とは視知覚系の正常な機能ともいえます。

雪が白いのはどうしてか

スキーのときにオレンジ色のゴーグルをつけると、最初は世界がオレンジ色に染まります。

二、三分もすれば雪は再び白く、空は青く感じられます。これが「順応」です。

ゴーグルを外すと雪が青く見えます。これを「陰性残光」といいます。

陰性とは逆方向という意味です。

モノの物理的性質とはちがう物が見えるという広い意味ではイリュージョンと呼べます。

ミミズのような下等生物にも同じような順応が見られることがわかっています。

残効は誤りなのか

順応は単なる疲労ではなく、環境に対する適応のメカニズムであり、生物学的機能です。

残効は順応の結果として起こる必然です。

残効も単なる錯誤ではなく、むしろ視覚系の正常な適応機能の反映と見るべきです。

色はモノの性質ではありません。

光の波長(の組み合わせ)と知覚される色とは一対一に対応しません。

照明、表面の性質、知覚する側の視覚系の特性といった要因の相互作用から「」が形成されるのです。

色覚のすばやい順応を前提とすれば、色の知覚はまるごとすべて錯誤ともいえます。

正しい知覚とは何か

眼球が生理的ゴーグルと考えれば、私たちの視覚は生まれつき順応が進んだ状態といえます。

実際に眼の光学的構造は、上下左右を逆転して網膜に像を結んでいます。

視知覚系はいつでも順応を続けていて、ゴーグルをかけていようが、裸眼でであろうが同じなのです。

「さかさめがね」をかけることは上下左右が逆になった網膜像を元に戻す実験です。

かけはじめは、頭の動きにともなって視野が激しくゆれ動く、ひどい酔いと吐き気をもよおすそうです。

しかし、数週間で順応し、行動ばかりか、知覚まで変化します。

最終的には世界が「正立して」「安定して」見えだすというから驚きです。

上下の順応が一週間、左右が四、五週間といわれています。

下條信輔氏は、これは感覚系だけの話にとどまらないとの考えを述べています。

より一般的な生活場面での「順応」にも同じような意味があるのかもしれません。

慣れる」とは、環境のクリティカルな部分に自分の敏感性を合わせること、つまり「順応」にほかならないのです。

そもそもイリュージョンとは定義できるのか

イリュージョンは単なる錯誤ではなく、視知覚系の適応機能のあらわれといえます。

そのように考えると、イリュージョンと「正しい」知覚を区別する基準は難しいといえます。

しかも「事実」のきちんとした定義ははっきりしません。

量子力学で、科学の受け入れる「リアリティ」の質は変わってきています。

「物質」の量子力学的理解は、私たちの「見え」とは、極度に違うものになっています。

だからといってすべてがイリュージョンだというのは、意味をなさないし、不便です。

明快な答えはないようですが、少なくとも次のことはいえそうだと下條信輔氏は述べます。

「私たちの知覚世界の現実性は、文脈や環境、適応機能に依存し、思いのほか複雑な構造を成している」

直感的判断の錯誤

知覚イリュージョンと同様に、認知判断も人々の間に共通するバイアスや錯誤が生じることが知られています。

特に直感的判断に錯誤とバイアスが見られます。

スポーツイラストレイティッドの表紙を飾ると、その後スランプに陥るというジンクスがスポーツ選手の間で信じられています。

このカラクリは、好成績をあげた選手のみを掲載するという、サンプリングの偏りによって起こっています。

ツイている、ツイていないは、よく話題に上がりますが、ほとんどが偶然のいたずらで説明できます。

これらの例は、本来無意味な事象の継起に因果関係を見出そうそする、ヒト生来の傾向の強さを物語っています。

なぜ判断を誤ってしまうのか

ヒトには秩序因果を発見しようとする強い認知傾向があります。

逆にいえば、無秩序や、因果関係のなさを嫌うといえます。

それらを見落とすことが、生物の生存にとって致命的になりかねないからといわれています。

ヒトにはまた、自分の信じたいこと、望んでいることを確認したい欲求があります。

これを動機的要因と呼びます。

動機の文脈に沿わないものは最初から見えないのです。

これに対して、多く見るものに影響受けること認知要因と呼びます。

日常生活では動機的要因と認知要因が重なるのがふつうです。

民間療法や新興宗教にハマってしまうことは、藁にもすがる気持ちが動機的要因、そこで与えられる成功例のサンプルが認知要因、ということで説明ができます。

錯誤の基本構造

イリュージョンと、認知の錯誤、の共通点は四つあります。

  1. 誰でも同じように間違う
  2. 共通するまちがい方をする(たとえばサンプリングのバイアス)
  3. 正しい解法や知識を与えられても、なかなか直らない
  4. 論理的に同型だが、難易度がちがう問題を作れる

知覚レベルと認知レベルでの共通性があるのはなぜでしょうか。

規則的で構造的な錯誤は、人々が知らず知らずのうちに採用している、現実的な解法の存在を示しています。

下條信輔氏はこれを「直感的な推論過程」と言い替えました。

人々は日常的に数学的・規範的な解法とは別のヒューリスティックを駆使して意思決定をしているらしいのです。

ヒューリスティックとは、直感的判断で人々が暗黙のうちに用いている簡便な解法、規則のことです。

カーネマンたちも、「規範的モデルでは人の判断過程は理解できない。記述的・認知的なモデルが必要」と述べています。

下條信輔氏はこれを「内在的で本質的な錯誤」と表現しました。

1章まとめ

私たちの知覚は、文脈や環境、適応機能に依存していることで、イリュージョンを引き起こします。

知覚のイリュージョンと同じように、直感的な認知にも錯誤が起こります。

私たちの行動には、常に「内在的で本質的な錯誤」が大きく関わっていることを自覚すべきだと思いました。