サブリミナル・マインド 第八講 無自覚の「意志」ー運動制御の生理学と哲学

いよいよこの講では、僕が興味を持っている、人間の「自発的意志」について深く切り込まれました。

下條信輔氏は「自発的意志」があるのかないのかの解釈については、明確に述べませんでした。

本講での下條信輔氏の関心は別のところにあって、「自発的意志」が自覚的で意識的であることです。

潜在的過程と顕在的過程には本質的な違いがあり、ある情報・知識の処理過程が一方から他方へと映るときには、何らかのダイナミックな全体的変化が生じると考える立場を表明しました。

認知できなくても反応する

目の前にあるコーヒーカップをつかむという行動を細かく分解すると以下のようになります。

  • 目の前にある物質の表面で反射した光線を網膜で受けて処理(感覚)
  • 記憶に照らして、それがコーヒーカップであると同定する(認知)
  • 適切な行動を選択する(司令)
  • 手を伸ばしてカップをつかむ(運動)

この過程は多くの人が疑うことなくイメージできます。

しかし、上記の「認知」過程をすっ飛ばして「感覚」からただちに「行動」にいたる経路があることがわかっています。

「さかさめがね」の実験が紹介されています。

かけた当初は頭がクラクラするそうですが、次第に行動が順応して、正常に知覚できるようになります。

「さかさめがね」の順応の中間的な過程で、予期しないときに予期しない方向からボールが飛んできたとします。

「さかさめがね」をかけた被験者は、それをうまくよけたり、手で振り払ったりすることができます。

ところが、その瞬間に「今ボールはどちらから飛んできた」などと質問されると、混乱してとっさには答えられません。

見えないのに反応する

「できるだけすばやく刺激に反応しなさい」という教示を与えておいて、刺激の呈示から反応の開始までの時間を測定するという実験があります。

刺激に対して、時間的、空間的に近い妨害刺激を呈示すると、刺激が見えなくなります。

これを「マスキング」と呼びます。

「マスキング」した場合と、しなかった場合で、反応の時間は変わりませんでした。

「マスキング」をしたときの反応について被験者は、

「しまった、見えていないのに反応しちゃった」と報告しました。

行動にだけ現れる視覚

線分の方向の識別ができない脳損傷患者の例です。

スロットの線の方向を判断させると、ほとんどでたらめに近い答えしか出せません。

しかし、カードを渡して、スロットに差し込むように求めると、なんと健常者と同様に、難なく入れることができるのです。

このことから、脳内には、行動に直結した神経回路があることがわかります。

この経路は、言語野や意識に関係した高次中枢と直接の神経連絡がないために、本人はその処理を自覚し、報告することができません。

感覚系と運動系をつなぐ神経回路は、はしご状にいくつかの異なる段階があり、低次のものは自覚できず、高次のものだけが自覚できる。

このようなモデルを「はしご段モデル」と呼びます。

表象なしの思考

ロボット工学者のブルックスは、低次の運動制御系のふるまいと、高次の認知ー行動系のふるまいは連続的であり、同じ単純なメカニズムの階層的な集積によって、複雑な認知ー行動系も構築されうると提案しました。

彼は「表象なしの思考」と表現しました。

「模型は心を持ちうるか」の著者ブライテンベルクも、大胆な提案をしています。

彼はセンサーを用いた単純な模型で、一見複雑とも思える認知機能を実現しました。

彼は、心や意識や、ヒトだけの認知・思考機能は、観察する側の思い入れにすぎず、かんたんな感覚ー運動システムの集積にすぎないのだ、とさえ言っています。

外見主義と創発主義

ブルックスやブライデンベルクの成果には二通りの解釈があります。

ひとつの極端な立場では、外見的に、心があるのと同様のふるまいをしさえすれば、心を「実現」したといえます。

これを「心の外見主義」と呼ぶとすれば、この立場は哲学的行動主義で、潜在的過程の一元論となります。

もう一つの考え方では、自覚的思考や顕在的知性は、単純な感覚ー運動連鎖の階層化・メタ化の果てに創発する特殊な性質である。

見る側の認知の問題ではなく、システムの側に属する機能であり、ひとつ目の解釈とは違います。

こちらは潜在的過程/顕在的過程の二元論となります。

自覚的過程が常に無自覚的過程から派生し、それに基づくものであると考える点は同じです。

どちらの立場を取るにしても、謎は残ると下條信輔氏は考察します。

運動制御と意志の問題

哲学者ウィトゲンシュタインの有名な問いがあります。

「私が手をあげる」から「私の手が上がる」を差し引くと何が残るか。

「手をあげよう」という自発的な意志が残るというのが大方の答えでしょう。

ではこの「自発的意志」というのは何なのでしょう。

これは「行為論」と呼ばれ、哲学者の花形トピックとなっています。

しかし、冒頭に紹介したように、下條信輔氏の関心は別のところにあります。

「自由意志」が自覚的であり、意識的であることです。

最初に例としてあげた「目の前にあるコーヒーカップをつかむ」はどうでしょうか。

コーヒーカップに手を伸ばしかけている人の手をおさえて、

「あなたはいま、どういう意志を持っているか」とたずねたとします。

その人は「コーヒーを飲もうとしているのだ」と答えるでしょう。

自分の「意志をすべて自覚し、言語で報告できたと見えます。

ここでやっかいな問題は、行為というのは筋肉の運動であるということです。

その生理学的機構はかなりのところまで解明されており、徹頭徹尾モノの世界の因果関係で記述されます。

さて、「自由意志」とはどこで蒸発してしまったのでしょうか。

人間も動物も、生理学的機構は機械論的に記述ができます。

17世紀に動物機械論があり、デカルトもその系譜です。

動物には魂がないと考えました。

人間も動物と同じ生理機構に支えられている以上、身体の中に魂が内在しているはずはない。

こうした考えから、有名な心身二元論を唱えました。

18世紀前半に活躍したラ・メトリは、「人間機械論」で、デカルトの精神を大脳の中に一元化しました。

この思想は、今日に至るまで主流の位置を占め続け、下條信輔氏は、今日の日本、欧米の生理学者の99%が賛成していると明言しました。

合目的にふるまうには脳が必要か

まずはじめに意志があり、この意志には当然目的があり、この目的を達成するための合目的なプランが形成される。

ここまでが、脳でなされる高次機能であり、そこから先の筋肉への運動指令などは脊髄以下の末梢神経のはたらきである。

ブリューガーらは、この当然と思われていた仮定をはなばなしく覆しました。

カエルを板上に固定しておき、背中の右側に酸などの刺激物を垂らせば、右脚先でこするような反応が見られます。

次に右脚を固定しておいて、背中の同じ位置に刺激を与えると、右脚がだめだとわかると、すかさず左脚で背中の右側をこすります。

これは高級で、合目的な反応です。

驚くべきは、頭部を切断し、同体と四肢だけになったカエルでも、同じ反応が確認できたのです。

この結果から、ブリューガーは、目的にかなう行動(随意運動)は脊髄レベルで組織化され得ると考えました。

極言すれば、脊髄にはある限定された「意識」が存在するとさえいえそうです。

機械論 vs. 生気論

断頭カエルの実験結果から、逆の問題提起もできます。

自発的運動や随意運動といわれているものが、そもそも脊髄レベルの反射と同じものだったのではないか。

これは高次機能を反射へと還元する還元論であり、先の「心の外見主義」や動物機械論と相通じる考え方です。

もともと運動生理学の思想史には大ざっぱに見て、ふたつの流れがあります。

そのひとつは機械論ー局在論の系譜です。

どちらかといえば、不随意運動を重視する、あるいは人や動物の行動をなるべく不随意的なものとして解釈しようとする立場といえます。

もう一つの流れは、生気論ー全体論(反局在論)の系譜です。

行動の随意性や自発性・合目的性・協調性などを重視する立場です。

このふたつの系譜は、本書に一貫して流れる、下條信輔氏の関心に密接につながっています。

それは「潜在的と顕在的という心理過程の関係」です。

顕在的心的過程の一番はっきりした例は自発的・意図的な随意運動に見られます。

これすらが大脳の機能とは限らず、より低次の脳や脊髄の機能に担われるケースがあることがわかりました。

機械論の立場を心理学にまで推し進めれば、潜在的過程の原則で顕在的過程をも理解しようとする考え方が予想されます。

逆に生気論の立場を推し進めれば、顕在的過程の原則で潜在的過程をも理解しようとする考え方が予想されるます。

モニターかダイナミズムか

下條信輔氏は、「無自覚的な過程も、自覚的な過程と同様に、意図や故意性や願望や好みを持つのだろうか」という問題提起をしました。

第三講では、右半球の合目的なふるまいや「好み」が紹介されています。

これに対する答えが「イエス」だとすると、両過程の違いは、自覚的過程によって「モニター」されているか否かの違いだけになります。

この答えが「ノー」なら別の考え方にならざるを得ません。

つまり両過程は本質的に違っており、ある情報・知識の処理過程が一方から他方へと映るときには、何らかのダイナミックな全体的変化が生じると考えられます。

後者を支持する事実は少しですがあります。

サブリミナル知覚の研究で、ある対象をすでに体験して顕在的に記憶しているか否かで、二度目以降にその対象に対する態度や行動が微妙に変わるということ。

またフロイト流の心理療法では、抑圧の原因を患者自身がそれを自覚するだけで、ヒステリーや不安神経症が治ってしまうこと、などがあります。

下條信輔氏は後者の立場に加担したいと、希望的に述べました。

潜在的過程と顕在的過程とのダイナミックな相互作用という「まさにこの点」にこそ、他の動物やコンピューターから人間を分けるもっともはっきりした違いがあるのではと、力説しました。

まとめ

僕がもっとも高い関心を持っている「自発的な意志」について書かれている講でした。

なにかはっきりしたひとつの解釈があるのではと期待していたのですが、そうかんたんなテーマではないことがわかりました。

前野隆司氏は、『脳はなぜ心をつくったのか』でロボット工学者の立場から、受動意識仮説という大変わかりやすい体系を述べました。

その仮説を本講の内容に沿って分類すると、機械論であり、モニター論です。

前野隆司氏は、意識は幻想であることを前提としつつも、実際の社会活動としては意識を感じている主体を認め、相反する考えを包括する、東洋哲学的な思想を展開しています。

下條信輔氏には、潜在的過程と顕在的過程という相反する過程を、わけへだてることなく科学的に解明しようとする、認知科学者としてのこだわりを感じます。

潜在的過程と顕在的過程の相互作用の中に、人間の意識のカギが隠されているのであれば、その研究成果をもっと知りたいと強く思います。