受動意識仮説 前野隆司著【レビュー】「意識」と「無意識」の関係がわかったかも

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説

本書を読んでわかったことは、

人間に、主体的な「意識」は無い、ということです。

ぼくたちは、自分の「意識」で考えて、行動していると思っています。

ところが実際は、「無意識」が思考も、行動も、先にすべて決定し、意識はその結果を後追いで受け取っているだけなのです。

このことは、ぼくたちの常識を大きくくつがえす、パラダイムシフトです。

この仮説を受け入れると、生き方が楽になると思いました。

「無意識」がすべてを担っている

「無意識」とは、脳のニューラルネットワーク(神経回路網)です。

脳の中で、1千億個の神経細胞が、自律分散演算を行うのがニューラルネットワークです。

それを前野隆司氏は「小びとたち」と表現しています。

「小びとたち」は、人間の、「知覚」、「感情」、「意図」、「記憶」、「運動」など、さまざまな働きを担っています。

前野隆司氏によると、すべてを「小びとたち」が行っています。

ぼくたちが、特に主体的に行っていると思っいてる、「思考」や「意図」ですら、行っているのは「小びとたち」たちで、「意識」をはその結果を受け取っているだけなのです。

「意図」は錯覚だった リベット博士の実験

前野隆司氏は、何かを実行しようとする「意図」も、「小びとたち」が担っているという証拠を提示しています。

カリフォルニア大学サンフランシスコ校、神経生理学教室のリベット博士の実験です。

頭蓋骨を切開した被験者の脳に電極を取り付けて、人差し指を曲げる運動について調べました。

被検者が指を「動かそう!」と「意図」した時間より、0.35秒早く「無意識」下の運動準備か生じていたのです。

この実験結果に驚いて、追試験をした学者もいたそうですが、誰がやっても同じ結果だったそうです。

本当は「小びとたち」が先にスイッチを押して、そのあとで「意識」はそれを受け取って、あたかも自分が「意識」してそれを実行したかのように「錯覚」しているのです。

なぜ「私」という意識があるのか

人間に主体的な「意識」がないなら、ぼくたちはまるで、あやつり人形です。

その上、自分が主体だと勘違いしている、残念なあやつり人形です。

なぜ、人間は、そうまでして、「私」という「意識」を持つようになったのでしょうか。

前野隆司氏は、「意識」は、「エピソード記憶」のために獲得した進化だと、結論づけています。

「エピソード記憶」によって、人間は、他の動物にはない、高度な認知活動をすることができるようになりました。

「エピソード記憶」には、行動を、個人的な体験にひも付けることが、必要です。

そのために、「私」という意識が必要になったと考えるのは、なんとなく納得がいきます。

自分と外側の境界はない

「私」という「意識」は、「小人たち」の活動の結果を受け取っているだけの存在です。

そして「 エピソード記憶」を行うために、個体にひも付いた経験のみを受け取っています。

では「小人たち」も、個体にひも付いた領域のみを扱っているのでしょうか。

「小人たち」の扱う情報は、個体の中であろうが、外であろうが、現象としては、同じなのです。

内と、外に分けることすら無意味である、前野隆司氏は解説します。

「意識」が、「自分」の内側のみを特別なものと捉えるように「錯覚」しているのです。

つまり、「自分」とは、本来は、外部環境と連続な、自他不可分な存在なのです。

まとめ

前野隆司氏は、プロローグで、小学校低学年のときに、自分の心は死んだらどうなるのだろう、と考えて眠れない夜を過ごしたと、述べています。

ぼくも同じ頃に、まったく同じ体験をしました。

自分という意識がなくなったらどうしようという「恐怖」に怯えたのです。

その「恐怖」は、家族といるときでもたびたび襲ってきて、一人で寝られなくて、両親の部屋で寝たこともあります。

中学校に上がってからは、そのような感覚を恐怖に感じることはなくなりましたが、「自分」とは何かという「問い」は常に心の奥底にありました。

この本を読んで、死ぬことの怖さは少し薄れました。

それは、もともと「私」という存在はない、ということが何となくわかったからです。

もともとないなら、失うことはありませんから。

では、あるものは何なのでしょうか。

前野隆司氏は、「私」のネットワークは不滅だ、と解釈しています。

ここについては、ぼくの中で腹落ちできている感覚はありません。

前野隆司氏の他の著書も読んで、深めていきたいと思います。

かと言って、それも「小人たち」にお任せするしかないのですが。