サブリミナル・マインド 第四講 レビュー 否認する患者たち ー脳損傷の症例から

本講では4種類の脳損傷の患者の例から、潜在認知の証拠をたくさん紹介しています。

言語機能=意識では自覚できない、高度の認知機能の存在が導き出されました。

盲視覚

神経の障害によって、視野の一部の領域では、光点を呈示されても検出できないことがあります。

そのような障害を持つ患者でも、見えない領域に刺激が呈示されたとき、知覚しているという本人の自覚がないにもかかわらず、(なんらかの仕方で)反応できるという能力を「盲視覚」と呼びます。

患者の欠損している視野の一直線上に、光点などの刺激をランダムに呈示する実験を行いました。

その後患者に、ターゲットの場所を眼の動き、指さしなどによって示すように求めると、

「何も見えないのだから、そんな事はできない」といって抵抗しますが、「でたらめでもいいから」といって無理やりに反応させます。

結果は、少なくとも統計学的に偶然とは考えられないほどの定位反応がしばしば示されました。

盲視覚では、刺激の位置の検出と、線分の方向や形の弁別が可能になっていることが、同様の実験から示唆されました。

円の半分を盲視野に、残りの半分を健常視野に呈示しました。

患者はしばしば簡潔な円が見えたと報告しました。

盲視野に半円を提示しただけでは自覚的には何も見えず、どんな形態も報告できませんでした。

健常視野だけに半円を呈示すると、半円を報告できるのみでした。

円を完結させたのは、認知的な推論や判断の結果ではありません。

なんらかの意味で「本当に見えている」のです。

盲視野の境目に対して片側に明るいバー、反対側に暗いバーを呈示し、どちらが明るいかの判断をさせました。

結果は、健常な視野にふたつのバーを出した場合と同じくらいに良い成績を出したのです。

盲視覚での実験の結果から、患者の中に、無自覚的な「気づき(アウェアネス)」があることがわかりました。

患者に光点の感覚を求めると、「針で刺されたような」、「遠くの砲火のような」、「位置を感じとれる」など、光による感覚とは違う報告をしました。

その他、✗か○かでは、スムースか、ギザギザかを「感じ」たり、健常視野のほうへ「明るさが広がった」理、いわく言いがたい感覚を報告しました。

盲視覚者のこの形容しがたい、矛盾に満ちた感覚は、夢遊病者の行動に似ていると、下條信輔氏は解説します。

夢遊病者も、適切に行動し動き回っている以上、環境に対するなんらかの自覚的な知覚はあるはずです。

にもかかわらず夢遊中に何をしているのか、何をしようとしているのか、あるいは歩き回っているあいだに何を見聞きしたのか、当人はまったく知らないのです。

半側無視

方半球の大脳皮質の損傷によって、反対側の視野に与えられた刺激に対して注意をはらう能力が損なわれることがあり「半側無視」と呼ばれます。

左半球側の無視が典型的で、症状も重いとされています。

盲視覚との違いは、視野計による検査で視野の欠損が認められないところです。

つまり単独で光点を呈示すると「見えた」と報告できるのに、その片側半分を無視してしまいます。

見えるのに注意を向けることができない、高次の認知機能、特に注意機能の障害だといわれています。

この「半側無視」は想像上の視覚イメージでも起こります。

想像上の視線よりも左側にある特徴を無視するのです。

その後同じ場所を反対側の視点から報告するように求められると、先程報告した側を今度は無視しました。

つまり半側無視は、視覚レベルの障害ではなく、より高次の認知障害であることがわかります。

「半側無視」の患者に、1本のひまわりを見せて模写させると、ひまわりの中心線から左側を完全に無視して右側だけをきれいに切りとって写したような絵を描きます。

見本のひまわりの脇にもう1本ひまわりを描き足して全部で二本にし、もう一度模写させると、今度は右側のひまわりだけを(しかし今度は半分ではなく完璧に)描きます。

対象の幅と対象性とが、無視される領域の範囲を決定する要因です。    

紙の幅を変えたり対象の幅や数を変えるだけで、この境界線もしばしば横方向に変化します。

このことは明らかに、患者が少なくともあるレベルでは、対象全体を認知していることを示しています。

にもかかわらず、最終的には患者は左側に注意を払うことができず、そこにあるものを自覚的には「見る」ことができません

この事自体、自覚的な注意の過程の前に、無自覚な視覚情報処理の過程があることを示しています。

無自覚な視覚情報に行動は影響を受けるのか

無視されているはずの視野に与えられた情報によって、患者の判断行動が影響を受けるということはあるのでしょうか。

左半球無視の患者は、馴染み深い対象の写真や名前をひとつだけ呈示したときには、それが視野のどこであれ、正確にそれを記述できます。

ところが左右の視野に、それぞれひとつずつ写真や名前を呈示すると(これを「二重同時呈示」という)、患者は右視野に与えられたものしか報告できません。

4人の患者に、なじみ深い対象の写真または名前を二重同時呈示し、強制的に、同じか違うかの判断を求めたところ、88〜100パーセントの正答率をえました。

ところがこの4人のうち2人は、左半球におよそ何かが呈示されたことなど全く気づいておらず、残りの2人も「何かがあったような気はした」が、それがどのような特徴を持つものかはいえませんでした。

つまり半数の患者は、自覚的には刺激が「ひとつしか見えていない」のに、「同じか違うか」を正しく判断できました。

したがって彼らは、自覚的には検出できない刺激についての、潜在的な知覚の認知をおこなっていたと結論するほかはありません。

「相貌失認」という顔の認知だけに限定された障害は、家族や友人、著名人などなじみ深いはずの顔をまったく再認できず、「なじみ深い」印象を持つことができません。

にもかかわらず、最近の神経心理学的研究によって、相貌失認の患者が、自ら自覚的には再認できない顔についても潜在的な知識を持っていることがわかってきました(再認とはすでに見知っているものとして同定すること)。

著名人の名前をその顔写真と対にして覚える学習課題を、患者に課しました。

患者は、実験に使われた著名人たちの顔を見知っているものとして再認することができず、名指すこともできませんでした。

 にもかかわらず、正しい対応リストは比較的簡単に覚えることができたが、でたらめの対応リストを覚えるのは大きな困難を示しました。

別の研究では、著名な俳優や家族の写真を見て対応する名前を選ぶことはできないのに、皮膚電位反応をモニターすると正しい名前に対して最大の反応を示しました。

相貌失認患者でも、なじみ深い顔について健常者と基本的には同じ情報を持っていること、ただその情報が完全に無自覚的であるという点で、健常者と違うことがわかりました。

失語症

失語症には以下の二種類があります。

  • ブローカ失語(運動性失語)聞き取りはできるがしゃべれない、統語論的な情報の処理の障害
  • ウェルニッケ失語(感覚性失語)しゃべれるが聞き取れない、意味論的な情報の処理の障害

最近になって、それぞれの失語における能力は、従来考えられていたよりもはるかによく保存されていることがわかってきました。

統語論的・意味論的情報が(患者自身によって)自覚されないだけなのです。

ウェルニッケ失語の患者は、ひとつの単語の理解や、それらの意味的関係の判断についての直接的なテストでは、意味的な情報を使うことができません。

しかし別の場面では、単語の意味的な側面に敏感に反応できる場合があります。

ふたつの単語を示されて、その両者の間に意味上のつながりがあるか否かの判断を求められると、まぐれ当たりの水準の成績しかとれません。

この課題は意味的情報についての顕在的な知識を必要とします。

文字つづりが単語であるかそれとも無意味つづりであるかを判断する課題では、ターゲット語に先だって意味のつながった語が呈示されているときには、意味のつながらない語や無意味なつづりが先に呈示されたときに比べて、反応時間が短くなりました。

これは健常者に見られるのと同じ「意味プライミング(呼び水)」の効果で、語を視覚的に呈示しても聴覚的に呈示しても、同じように得られました。

プライミング効果は健常者の場合と同じくらい大きく、しかし顕在的な諸テストとはまったく相関がありませんでした。

これらの患者は、理解や作文テストで活用できるよりもはるかに多くの言語的知識を持っているのです。

このことから、言語の過程の中に分離が可能ないくつかの異なるサブシステムがあると考えなくてはなりません。

まとめ

潜在的な認知の過程の実験による証拠には、大きく分けて二通りあります。

ひとつは間接的な課題・指標に認知が反映しているという場合です。

もうひとつは、無理を承知で直接課題を強要すると、思いがけず成績が良いという場合です。

盲知覚は後者の例、失語の場合は前者の例になります。

重篤な失語症でまったくしゃべれないようなケース(ブローカ失語)でも、非言語的な認知過程では、必ずしも成績が悪いとは限らないことがわかっています。

非言語的な認知とは、身辺のことからに関する質問にうなづいたり、首を振ったりして、答えることができる能力です。

非言語的な課題の成績は言語の理解の障害と対応していて、話す能力の障害の程度とは関係はありません。

これらの事実と分割脳患者の「右半球系」の能力などから見ると、言語と知能(あるいは高次の認知機能)とは同一視できないことがわかります。

このことは(意識と言語機能との密接な関係を認めるとすれば)意識的に自覚されない高次の認知機能を承認したのと同じことになるのです。